【立ち読み版】渋沢栄一の深谷
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 渋沢栄一は一八四〇年(天保一一)二月一三日、武ぶ州しゅう榛はん沢ざわ郡血ち洗あらい島じま村(現深谷市)の農家に生まれました。江戸期寛かん政せいの頃に五〇戸ほどになった村には十数戸の渋沢家があり、栄一の生まれた家は「中なかのん家ち」と呼ばれました。利と根ね川がわ、小こ山やま川がわに囲まれた平らな血洗島からは、赤城、榛名、妙義の上毛三山や、遠くに日光の男体山、浅間山まで見渡すことができます。 色白で丸顔の栄一少年は、「赤城おろし」の風が寒さと一緒に吹き降ろすなか、母・えいの着せてくれた羽織を放り出しては遊び、羽織をもって追いかけてくる母を置いては逃げ出しました。そんな様子を近所の人は「おえいの羽織」と言って見ていたそうです。12●ふるさと血洗島 血洗島は河川に因む「島」の付く集落の一つで、中世の頃から開かれ、「赤城山の山霊が他の山霊と闘って傷口をこの地で洗った」や、「河川の氾濫で地が洗われた」などと伝わり、地元の古老は「チャーライジマ」とも言います。  集落にあった、「上かみの淵ふち」「下しもの淵ふち」の二つの沼の面影は現在僅かに残るのみですが、家の北西方向を囲む風よけの屋敷林は栄一も見た風景です。❶

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