【立ち読み版】渋沢栄一の深谷
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14 渋沢栄一が生まれた「中の家」は、「東ひがしのん家ち」から婿に入った父・市いち郎ろう右う衛え門もんの代に家運を盛り上げ、苗字帯刀を許され、村の名主見習いとなりました。栄一が育った頃は米、麦を作り、養蚕を行い、藍あいの栽培が盛んでした。そして、父は藍あい玉だまの製造技術に優れ、信州、上州方面に得意先の紺こう屋やをもっていました。栄一の生まれ育った頃の母家は茅葺でしたが、母屋を囲むように藍玉製造に使われたという土蔵や、「お店」と呼ばれた副屋があります。 現在の母屋は一八九五年(明治二八)、跡を継いだ妹・てい夫妻が建てたもので、二階の屋根に「煙出し」と呼ばれる櫓やぐらを乗せたこの地域特有の養蚕農家の特徴があります。実業界に活躍の場を移した栄一は多忙な中、年に数回この家に帰郷しました。母屋奥の十畳の間は、栄一の宿泊のために特に念入りに作られたと伝わっています。 一九八三年(昭和五八)から二〇〇〇年(平成一二)まで、栄一の意志を継いだ国際交流事業として「学校法人青せい淵えん塾渋沢国際学園」がここで開かれました。正門前の幸こう田だ露ろ伴はん揮き毫ごうによる「青淵翁おう誕生之地」の石柱が留学生を迎え、庭先に立つ侍姿の栄一の銅像が勉学に励む様子を見守っていました。●栄一の生地「中の家」一番奥に見える十畳の間が栄一の宿泊した座敷❷

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