【立ち読み版】渋沢栄一の深谷
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16 旧渋沢邸「中の家」敷地内にある三つの石碑は、谷中の渋沢家墓地より二〇一四年(平成二六)に移設されました。 栄一の父・市郎右衛門は一八七一年(明治四)に、母・えいはその三年後に亡くなり(父母ともに享年六三歳)、「中の家」の前方にある渋沢家墓地に寄り添うように眠っています。栄一は東京においても父母の追善を行えるように、招しょう魂こん碑ひをそれぞれの亡くなった翌年に建立しました。 父の雅が号ごうに因む「晩ばん香こう渋沢翁招魂碑」は尾お高だか惇じゅん忠ちゅうが撰文したもので、栄一はその全文を暗誦し、家族に聞かせています。そして、栄一は母への思いを「先せん妣ぴ渋沢氏招魂碑」に込め、自ら涙を拭って撰文しました。 妻・千ち代よの弟・尾高平へい九く郎ろうは尾高惇忠の末弟で、栄一は渡仏に際して見立て養子としました。幕臣となった平九郎は新政府軍と戦い、黒くろ山やま(埼玉県越お生ごせ町まち)にて二〇歳の若さで自刃して散りました。栄一は平九郎の非業の死を悼み、一九一七年(大正六)、「渋沢平九郎追つい懐かい碑ひ」を建てました。平九郎が自室の仕切りの壁に残した書「楽人之楽者憂人之憂 喰人之食者死人之事(人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂う 人の食を喰らう者は人の事に死す)」が刻まれています。「中の家」に立つ「若き日の栄一」像●父・母さらに養子への追慕の情❸

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