はじめに︱血洗島から心を馳せて︱ 渋沢栄一は一八四〇年(天保一一)二月一三日、武ぶ州しゅう榛はん沢ざわ郡血ち洗あらい島じま村(現埼玉県深谷市)の農家に生まれました。血洗島村は冬には赤城おろしが吹きぬける平らな土地です。水田は少なく、畑では麦や藍あいを栽培し、養蚕を行う桑畑もあり、領主への年貢は金銭で納めていました。また、南に約一里ほどで中山道が通り、舟運の動脈でもあった利と根ね川がわが北に流れていることから、物流と人の往来も盛んで、情報と文化がいち早く行き交う地域でもありました。 父・市いち郎ろう右う衛え門もんは村内の渋沢家「東ひがしのん家ち」から「中なかのん家ち」へ婿に入り、生来の勤勉さと律義さをもって農作や養蚕の他、藍作や藍あい玉だま製造・販売(藍玉商)に励み、質屋も営み、働いて得たお金はカスと考える人でもありました。栄一は三歳の頃より父から読み書きの手ほどきを受け、書を「東の家」の伯父・宗そう助すけに習いました。母・えいはとても慈悲深く、誰にでも優しい人でした。 物覚えのよかった栄一は、七歳からは一〇歳年上の従兄・尾お高だか惇じゅん忠ちゅう(雅が号ごう「藍らん香こう」)の塾に通い、『論語』などの漢籍の素読を始め、幅広く書物を読みました。後に栄一は、自分の学問は郷里での漢学であったと言い、「私が、人間は悪いことをしてはならぬということを悟ったのも、世の中に一本立ちが出来るようになったのも、全くこの漢学のおかげであった」と述べています。栄一はよく筆をとり、漢詩を詠み、「中の家」の裏手にあった青く深い淵にちなんで尾高惇忠により名付けられたと伝わる雅号の「青せい淵えん」と記しています。そして、惇忠の妹・千ち代よとは一八歳で結婚しました。 一方、栄一は神しん道とう無む念ねん流りゅうの剣術にも他の従兄弟達と共に汗を流し、家の仕事を手伝う中で商いにも興味をもちました。一六歳のとき、父の名代で領主の陣屋に呼び出されて御用金を申し渡された体験から、身分制度や幕藩体制に疑問を抱くようになり、一八六三年(文久三)に六九名の同志を4
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