集めて高崎城乗っ取り、横浜居留地焼討ちを企てますが、情勢を判断して計画を直前に中止します。 同志を安全に逃した栄一は京に上り、縁あって一橋家に仕官すると、藩財政の再建や藩兵募集に頭角を現します。そして、藩主・慶よし喜のぶが第一五代将軍になると、一八六七年(慶応三)、パリ万国博覧会に将軍の弟・昭あき武たけを派遣する使節団の庶務・経理担当として加わりました。万博会場やパリ市内見学を始め、ヨーロッパ各国訪問にも随行し、鉄道や銀行、工場など近代化された社会を見たり、滞在資金捻出のために株式・社債を実際に体験したりして学び、視野を広げました。 日本が明治になって帰国した栄一は、慶喜のいる静岡で合本組織・商法会所を興しますが、すぐに明治政府に迎えられ、地租改正や度ど量りょう衡こうの改正などに手腕を発揮しました。しかし、政府の財政策と意見が合わず、一八七三年(明治六)、実業界に入り、日本初の民間銀行である第一国立銀行を創立します。栄一は民間の力を集めた会社によって日本の社会を発展させようと考え、五〇〇社に及ぶ会社の設立や支援に関わりました。同時に、実業界の指導者として多忙な栄一でしたが、福祉や教育、国際交流など六〇〇を数える社会公共事業にも力を尽くし、一九三一年(昭和六)一一月一一日、九一年の生涯を閉じました。 渋沢栄一は近代日本経済の父とも呼ばれ、二〇二四年からの新しい一万円札の顔になります。本書では渋沢栄一の生まれ育った風景、少年時代から携わった藍と養蚕の風景、日本の近代化を進めた煉瓦の風景、足跡を今に引き継ぐ故郷と実業の風景、そして、栄一のこころにふれる風景を訪ね、血洗島から心を馳せて時代の波に向かっていった栄一の姿を、私たちが目にすることのできる今日の社会からみてゆきたいと思います。そこには、父から受け継いだ経営の術と母の慈愛が栄一とともに新しい時代にも伝えられていく場面もあるのかもしれません。5
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